「いい歳した爺が、何を必死に鉄を挙げているのか」
そう冷笑する者がいても、私は構わない。
世間が言う「年相応」という言葉は、時に「諦め」の別名に過ぎないからだ。
階段で息を切らし、鏡に映る緩んだ身体に目を逸らし、過去の栄光だけを肴に酒を飲む。それが「落ち着いた大人」の姿だと言うのなら、私は一生、未熟な挑戦者のままでいい。
恥ずかしい? ああ、確かにそうだ。
58歳にもなって、15kgが挙がったと拳を握り、17.5kgという未知の数字に武者震いする。客観的に見れば、滑稽な姿かもしれない。
だが、思い出してほしい。
私たちが心の底で本当に求めていたのは、「無難な着地」だっただろうか。
それとも、自分の限界に指先が触れる瞬間の、あの痺れるような「生の実感」だっただろうか。
多くの男たちが、その熱を「恥ずかしさ」という蓋で隠して生きている。
「もう若くないから」「今さらやっても」と、自分に嘘をつきながら。
私は、その蓋をこじ開けに来た。
1年でわずか2.5kg。亀のような歩みでいい。
自分を律し、昨日できなかったことを今日成し遂げる。その小さな勝利の積み重ねだけが、男の乾いた魂に潤いを与えてくれる。
……笑いたければ笑うがいい。 だが、鉄を握り、自分を律し始めた男の瞳は、 君たちが忘れてしまった「自由」を、もう一度捉え始めている。
恥ずかしがることはない。 君の胸の奥で燻っているその火を、今日、鉄の冷たさで呼び覚ませ。
さあ、行こう。 17.5kgの先にある、まだ見ぬ「自分」に会いに。
そうだろう?

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